2008年11月7日金曜日

資本主義の豚め!!

ゼ~ロ~(正式なタイトル知らん)で、15年ほど前に実際に小学校であったことを、ドラマにして中学生だかに見せているようすを流してた。

でその話というのは、小4か3から卒業までクラスで豚を飼って最後に食べましょう。
そうすることで命の大切さ、食べ物のありがたさを学びましょう、というような話。
ぱっと聞いただけでは、まあそういうのもいいんじゃねと思ったが、中身を聞くとひどいもんだ。
豚に名前を付けて、みんなでお散歩に行ったりして、もはやクラスの一員。
それで最後食べようといおう段階で、当然嫌がる子供が出てくる。

下の学年に飼ってもらおう
自分たちで食うのが豚のためになる
屠殺(なぜか変換できなかった)場任せ

意見折り合わず、言いだしっぺの教師が決めることに。
教師が出した結論は、屠殺場に処分してもらおう。



命の大切さの教育とか云々以前に、これどう考えても教師の思い付きだろ。
とても先のことを考えていたとは思えない。
そんなペットみたいな扱いしたら情が移るのは当たりまえだっつーの。
屠殺場でもそんな情が移るようなことはせんだろ。

動物を飼う事は子供たちの教育にとっていいことだろう。
そして飼うこと自体が目的ならば、名前を付けて、一緒に楽しく触れ合って動物と友情を育むことは大いに結構だろう。
動物の死も、ショックを与えることにはなるが、結果的には生徒の精神面の成長を促すだろう。
「身近な人やペットの死を経験することで子供は一歩大人に近づくはずなんで、それやってみよう。そのためには豚と仲良しになんないとね。死んだとき悲しいのが嫌だから愛情を注がないなんて間違ってるよ!!」とでもその教師は考えたのだろうか。

でもそれはあくまで普通に死んだ場合。
自分たちで(直接ではないと思うが)殺して食うんだよ。
この場合は、愛情を注いで育てるのは大いに結構だが、あくまで家畜として扱うべきだろう。
食べる予定の豚をクラスの一員にしてしまうのは、いたずらに生徒の心を傷つけるだけに思えてしまう。

そのあたりこの教師は認識できていたのだろうか?

普段何気なく食べている肉だけど、動物の命の犠牲、そして処分してくれる人がいるおかげなんだということを知って欲しい。
動物を飼うことで優しい心も育んで欲しい。
親しい存在の死を受け入れることで、命の尊さを知り人間として大きく成長して欲しい。

こうやって思いつくままに、あれもやりたい、これもやりたいと、いろんなことに手を出しすぎたんじゃないか。

で、結局収拾がつかなくなり、投げ出す形で屠殺場さん後は任せた。

この選択、一番まずいとおもうけどなあ。
あまりに無責任に思われる。

それなら、屠殺の現場は見せずに処分して、食いたい子にだけ食わせた方がいいだろう。
食べる派にはもちろん受け入れられるし、殺すな派に取っちゃどっちにしろ殺すに変わりはない。
豚の死骸ではなく、お肉となった状態なら見せてもそこまでショックはでかくないだろう。

或いは下の学年に引き取ってもらい、学校のペットとする。
結果的に生徒たちは動物と触れ合えたし、命についても考えられた。
食物の大切さは教えられなかったけど、まあそこは妥協。
最も下の学年にとっては、断るわけにもいかんし大迷惑。
迷惑かけるわけにはいかんと思ってこれは消したのかもね。


俺の意見結論としては、豚を飼って食うこと自体は、必ずしも悪いこととは思わない。
思わないけれども、このケースでは教師が勢いだけで思慮に欠いていたんじゃないか。

そして結果として生徒は馬鹿な教師のせいで、必要以上に心を痛めさせられていい迷惑なんじゃねーか。

ビデオを見せられた中学生たちが、一様に考えさせられた、だのと肯定的な評価を下してるのは、

空気を読んだんだろね。
俺が中学生でもそうしてただろな。


以上

どうも最初に思っていたのと少々違う結論に達してしまったぞ。


最初に頭の中にあった結論。

騎手は馬肉食わない人が多いとか言うけど、それを、牛や豚は食うのに馬だけは食わないなんて偽善だ、と囃し立てるような、そんな薄っぺらい何か勘違いした正義感を持った教師のただのオナニーに、生徒がつき合わされた、生徒にとっては迷惑なだけの話。

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